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乙一『死にぞこないの青』(幻冬舎文庫)


死にぞこないの青 (幻冬舎文庫)死にぞこないの青 (幻冬舎文庫)
(2001/10)
乙一

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今回紹介するのは、乙一著『死にぞこないの青』。

主人公は小学五年生のマサオで、彼の視点から話が進められる。
彼は内気で他人と関わるのが苦手な少年である。そんな性格ながらも楽しく学校生活を送っていたのだが、新しい担任の羽田先生が赴任してきてから虐められるようになる。羽田先生からは集中的に叱られ、クラスメイトからは無視される日々が続く。
そんなある日、マサオの前に真っ青の皮膚の少年「アオ」が現れる。アオはマサオにしか見えないのだが…

――――――――――――――― 

本作品はミステリーのような、ホラーのような、はたまた人間心理を抉るような、なんとも形容しがたい唯一無二の小説である。作者の乙一もあとがきで次のように語っている。


これまで僕は、ミステリ的なオチを求められているんじゃないだろうかとか、ラストで読む人を感動させないといけないのではないだろうかとか、いろいろ心配しながら話を作ってきました。しかしその人[編集者]はそのどちらもなくてかまわないとはっきりおっしゃったのです。(中略)書いてしまいました。好きなようにやってしまいました。
(※[]内は筆者による補足)


つまり、この小説は私が感じたようにミステリーにも感動作にも分類されないものであると著者乙一も自認しているわけである。

ではこの小説は何をテーマとしているのであろうか。私が本作品を読んで最も卓越していると思った点は、人間心理の洞察である。それもマサオだけでなく、羽田先生からクラスメイトに至るまで実に繊細に描写されている。そのように漏らすことなく非常に巧みに洞察され描写されているために、読んでいてしばしば心理的にゾッとさせられた。
今回は特にマサオの心理に注目してみようと思う。

マサオのクラスの担任は、ある事件の後に羽田先生から新しい先生に代わることとなる。
新しい先生は、何でも完璧で尊敬を集めた羽田先生とは逆で、頑張っているけれどもその頑張りが空回りして小さなミスを繰り返すような人である。そんな先生に、マサオは次のように尋ねる。


先生は教壇の上に散らばった自分のノートや教科書などを整えていた。そこへ近づき、声をかけると、彼女は首をかしげて僕を見た。
「まわりの人が自分のことをどう評価しているか、恐くないんですか?」
羽田先生のことを考えながら、僕は尋ねた。彼は自分の評判を落とすまいと必死になり、その方法として僕を生贄にすることを思いついたのだ。
僕は被害者だったけど、羽田先生の気持ちもわかる。生きているかぎりみんなそうなんだ。いつもだれかに見られていて、点数をつけられる。恥をかきたくないし、よく見られたい。誉められるとうれしいけど、失敗すると笑われそうで心配になる。きっとみんな、自分が他人にどう思われているのかを考えて、恐がったり不安になったりするんだ。



このマサオの問いかけに対して、先生がどう答えたのかはここでは明らかにしない。気になった方は是非読んで確かめて欲しい。
さて話すべきはマサオの洞察である。
マサオは羽田先生を洞察しつつ、その奥に人間の虚栄心とか自尊心を非常に鋭く見抜いている。虚栄心・自尊心とは、他人に承認してもらわないと自分の価値を担保できないという弱さからくる。そういう自信の無さから生じているのである。哀しいかな、人間は誰しも自分の中にそういった弱いもう一人の自分を持っている。

アオは、マサオの中のもう一人の自分である。
ただアオはそういう虚栄心や自尊心の元となるような「弱い自分」ではない。寧ろマサオは虚栄心や自尊心に敏感だからこそ、そういうものを持っていない。その代わりに、彼はそういうものの餌食にされているのである。そしてそのことに耐えつつ、自分でも気づかない内に「怒り」を溜めてしまっている。アオは、そのような他人や自分からの抑圧によって押し込められたマサオの中の「怒り」なのではないかと思うのである。

そう考えて読んでみると、羽田先生の心の中に見えた「弱い自分」もマサオの怒りとして分身する「アオ」も、自分の中にいる存在として非常に身に迫って感じられる。フィクションとは割り切れない。

この虚構を虚構と感じさせないところが、冒頭で述べたように、この物語を心理的にゾッとさせるものにしていたのかもしれない。
よく言われることであるが、一番恐ろしいのはやはり人間の心理である。




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伊藤左千夫『野菊の墓』(新潮文庫)

野菊の墓 (新潮文庫)野菊の墓 (新潮文庫)
(1955/10/27)
伊藤 左千夫

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今回紹介するのは、伊藤左千夫著『野菊の墓』。
かの夏目漱石も本作品を「自然で、淡泊で、可哀想で、美しくて、野趣があって(中略)あんな小説 ならば何百編よんでもよろしい」と評している。私も洗練されつつも良い意味で素朴な小説だと思ったし、読了後切なさとともに何か爽やかな余韻が残った。

本作品は、旧家の息子である十五歳の政夫と彼のいとこである十七歳の民子を中心として物語が繰り広げられる。
政夫と民子は幼馴染の間柄で、民子は何かにつけて政夫の部屋を訪れてはちょっかいをかけており、政夫の方もそれに応じて無邪気にじゃれあっていた。
そんな日が続いていたが、周囲がその関係を訝しがるようになった。その雰囲気を感じ取った政夫の母は、二人を呼び出して彼らの親密になりすぎた関係を咎めた。いい年をした男女が二人っきりで会っていたら間違いがあると思われても仕方ないと言うのである。
民子に対して今までそんな気持ちを抱いていなかった政夫はその母の言葉に心底驚いたが、それと同時にその出来事によって民子への恋心をはっきりと自覚することとなった。
それ以来、政夫と民子はお互いを意識するようになってぎこちなくなるのだが…

―――――――――――――――

少々長くなってしまうが、政夫と民子の初々しいやり取りを紹介したい。
以下のやり取りは、政夫の母から咎められた後に二人で山に棉を摘みに行く道中で交わされたものである。


野菊がよろよろと咲いている。民さんこれ野菊がと僕は吾知らず足を留めたけれど、民子は聞えないのかさっさと先へゆく。僕は一寸脇へ物を置いて、野菊の花を一握り採った。
 民子は一町ほど先へ行ってから、気がついて振り返るや否や、あれッと叫んで駆け戻ってきた。
「民さんはそんなに戻ってきないッたって僕が行くものを……」
「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
 民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。
「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって……」
「僕大好きさ」
 民子はこれからはあなたが先になってと云いながら、自らは後になった。今の偶然に起った簡単な問答は、お互の胸に強く有意味に感じた。民子もそう思った事はその素振りで解る。ここまで話が迫ると、もうその先を言い出すことは出来ない。話は一寸途切れてしまった。


なんという淡く切ないやり取りだろうか。
政夫は元から野菊が好き、民子は自分のことを野菊の生まれ変わりだと思っている。そして、民子は政夫が野菊を好きだということを恥じらいつつ独り言つように確かめる。政夫はその民子の言葉に野菊が好きであることを改めて強調する。
政夫の真っ直ぐな愛情表現も、民子の隠しつつ漏れ出る恋心も、民子の投影として「野菊」を用いることによって良い具合に靄がかかっている。「野菊」によって、近づきたくとも近づけない若い男女の距離感が出ているわけである。

それにしても、「なんとなく野菊のように思えて好ましい」というのは政夫が民子を純朴で可憐な少女と見ていることを非常によく表している。政夫の民子に対する恋心は、プラトニック以外の何ものでもないのである。
これが野菊でなく牡丹や百合であったら、民子の純朴さも政夫のプラトニックな愛も台無しになっていただろう。
このように考えると、この小説はいかに「野菊の墓」でなければならなかったかが一層強く感じられる。

さて、こののち政夫と民子の淡い恋はどのような結末を迎えるのか。
実を言えば今回はこのことについて非常に書きたかったのだが、この記事を読んで頂いている方にとってネタバレになってはいけないと思い自重した次第である。
物語の終盤に至ると、野菊が咲き乱れる情景とともに嘗てない切なさと悲しさが胸に迫ってくる。その切なさと悲しさが、また二人の初恋の情感を一層美しいものへと昇華させる。
この種の情感は、夏目漱石ではないが何度も味わいたくなるし、自らの初恋の清廉な気持ちを思い出させてくれるような気がするのである。

「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」

民子は政夫のこの言葉を、大事な初恋の思い出として宝物のようにずっと胸に留めておいたに違いない。
きっと、きっとそうである。




中村うさぎ・三浦しをん『女子漂流ーうさぎとしをんのないしょのはなし』(毎日新聞社)

女子漂流 ーうさぎとしをんのないしょのはなしー女子漂流 ーうさぎとしをんのないしょのはなしー
(2013/11/06)
中村 うさぎ、三浦 しをん 他

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今回取り上げるのは、中村うさぎ・三浦しをん著『女子漂流―うさぎとしをんのないしょのはなし―』。
私は本作品を図書館で借りたため帯を見ることができなかったが、今回記事を書くにあたってネットで帯を見てみると、なるほどよく本書の内容を表しているなと思った。

「とかく女は生きづらい」

いや、非常によくわかる。私も女の端くれであるから、この種の性に根差した生きづらさは日ごろから心底実感している。
このような女性特有の生きづらさが如何にして生じており、どこにその源があり、どのように付き合っていけば良いかという問題を考えることがこの本のテーマである。
この問題を実体験をベースにユーモアを交えながら考えてくれるのは、中村うさぎと三浦しをんである。彼女たちの優れた洞察力を以てして、ただの女子会のネタになりそうなこの問題もありきたりな考えで済まされることなく、面白い分析が加えられている。
本作品では、クセの強い彼女たちだからこそ展開できた「女の生きづらさ分析」が見られるのである。

―――――――――――――――

本作品では共感する部分が非常に多くあり、この記事でどの対話を取り上げようか迷いに迷ったが、私が「女の生きづらさの原因はこれだ!やっと見つけた!」と思った対話にスポットライトを当てて書いてみようと思う。
その対話は次のようなものである。

うさぎ:女子高のときって、女同士のツッコミが激しいじゃないですか?「男にケツ振ってんじゃねえよ!」とか。
しをん:ええ。ツッコミは強烈ですよね。
うさぎ:あたしね、その女子のツッコミが、自分の中にいる魔女を育てると思うんだよね。
しをん:魔女って?魔女が大きくなると、自分自身へのツッコミがどんどんキツくなるってことですか?
うさぎ:そう。あたしね、自分の中に、お姫様願望が根強くあるの。ロマンチックな恋がしたいとか、男の人にこんな言葉をささやかれたいとか、それこそ、お姫様みたいに扱われたいとか、そういう願望。でも同時に、あたしの中には、ひねくれたババアの魔女もいて、「何がお姫様だよ、フン!」って思ってるのね。魔女のあたしは、お姫様のあたしが大っ嫌いなの。なぜなら、恋に落ちると、途端にお姫様がしゃしゃり出てくるからですよ。ものすごい厚化粧して、「お呼びですかあぁ~?」って。
しをん:(爆笑)。

中村氏の言う「お姫様」と「魔女」とは、「女性のイデアを求めてそうあろうとする自分」と「女性のイデアに敗れてそうなりたくともなれないことを実感した自分」であると考えられるのではないかと思う。
どんな女性にもすべからくこの二つの自分がいるのではないだろうか。場面や時期、対峙する人などによってお姫様の方の自分が出てきたり魔女の方の自分が出てきたりする。そしてこの二人の自分が主導権を争うのである。所謂女らしい私を目指すか、そんな「女らしい私」なんぞ幻だと投げ捨てるか。私の女としての人生モデルをどっちに定めるのか。
この姫と魔女の主導権争いが、女の生きづらさの原因なのではないかと思うわけである。

この本の後半で次のような対話が交わされている。

しをん:私ね、「努力すれば、なんとかなる」っていうのは、学生時代までの話であって、社会に出て働き始めてからは、努力ではなんともならないことがいっぱいあると思ってるんです。根回しだったり、タイミングが大事なこともあるだろうし。頑張れば頑張るほど、仕事が報われるわけでもないんですよ。でも、それに気づけないというか、それをどうしても認められない人もいるんだと思うんです。
うさぎ:それは、男女問わず、だよね。
しをん:はい。学生時代はがむしゃらに勉強して、校内で一番の成績で東大に入ったとしても、会社では途端に思うようにいかなくなることは、男性にもあると思う。でも、会社組織はいちおう男性向けに作られたものだから、うまく立ち回れば、ある程度はどうにかなると思うんです。だけど、女が同じことをしても、何かの拍子に「でも、ブスじゃん」っていう一撃があるんですよ。
うさぎ:最後は、ブスの壁にぶつかるんだよね。

なぜ女性にはそんなにも「お姫様と魔女の主導権争い」が熾烈なのか。なぜ女性はお姫様にも魔女にもなりきれないのか。これは、女性には上記の対話で言われているような「ブスの壁」が立ちはだかっているからだと思われる。
つまり、女性は「美醜」という絶対的基準(=ブスの壁)で己の価値が決まり優劣が下されるのであって、そうやって断定された価値は努力で得る価値ではどうにも覆らないのである。この厳しい事実が、女性の中に「女性のイデアを志向するお姫様」と「女性のイデアに嫌悪し諦観する魔女」を生み出すと考えられる。ブスの壁に立ち向かう「私」が「お姫様」であり、ブスの壁に敗れ立ち向かうことを諦めた「私」が魔女なのである。

どうしようもない美醜という絶対基準、ブスの壁と私たちはどう向き合ったらいいのだろうか。
受け入れて自分らしく生きるのがいいのかもしれないが、そんなに易しく受け入れられるものでないからこその「壁」なのである。あくまで「壁」は私たちに対立してくるのである。
「でもブスじゃん」と言い放たれることは、今まで自分が努力して築いてきた人生を「醜」という刀で滅多切りにされることである。これを受け入れるとはかなり無理がある。

私は、このブスの壁をどう乗り越えるかという問題がいまだに解決できていない。お姫様と魔女が相争っているまっただ中を日々生きている。
ただ、一瞬だけ彼女たちの争いが収まりブスの壁を乗り越えた気がしたことがある。これが本当の解決かは断言できないが、それは男性の愛に包まれているように感じたときであった。男性の愛を感じたとき、私は私のままになり美醜という基準すらも意識には上らなかった。ただただ安らかな気持ちで等身大の自分でいられたような気がする。

だとしたら、女の生きづらさは男の愛によって乗り越えられるのだろうか。
もしそうならば、そういう数少ない男に出会うために女はたくさんの「醜」というレッテルを張られ続けなければならない。それに耐えなければならない。
しかしこれでは、生きづらさを解消させるための愛が、それを得ようとする過程で逆に女の生きづらさを助長させてしまうのではないか。
ここに至って、いよいよ女は生きづらさの無限ループに入ってゆくことになる。

やはり、「とかく女は生きづらい」のだ。




堀辰雄『菜穂子』(岩波文庫)

菜穂子―他五編  (岩波文庫)菜穂子―他五編 (岩波文庫)
(2003/01/16)
堀 辰雄

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今回は、堀辰雄の『菜穂子』。堀文学の頂点と言われており、肺を病んだ堀が唯一残した長編小説である。
近年では堀のもう一つの代表作である『風立ちぬ』とともに、宮崎駿監督の「風立ちぬ」の原作にもなっていて注目されている。

本作品は「楡の家」「菜穂子」から成っており、「楡の家」で母から見た菜穂子が描かれている。そして「菜穂子」では、菜穂子の夫である黒川圭介から見た菜穂子、菜穂子の幼馴染である都築明から見た菜穂子、菜穂子の独白という三つが織り交ぜられながら物語が進んでゆく。

―――――――――――――――

菜穂子は物語を通じて、じっと相手を見据えるような目つきをする。その視線には相手を試し、拒絶し、見下すような気持ちが感ぜられる。彼女の目つきは、冷めた目つきなのである。
この菜穂子の視線は母にも圭介にも明にも向けられるのだが、母と圭介はその菜穂子の視線を受け止めきれず厭っている。そのことは以下の記述からも見て取れる。(引用中の「彼女」は菜穂子である。)

 「後生だから、お前、そんな眼つきでおれを見る事だけはやめて貰えないかな。」帰りぎわに圭介は相変らず彼女から眼を外らせながら軽く抗議した。――彼女は、いま、嵐の中でそれだけが麻痺したようになっている一枚の木の葉を不思議そうに見守っている自分の眼つきから不意とその夫の意外な抗議を思い出したのだった。
「何もこんな私の眼つきはいま始まった事ではない。娘の時分から、死んだ母などにも何かと嫌がられたものだけれど、あの人は漸っといまこれに気がついたのかしら。それとも今までそれが気になっていても私に云い得ず、漸っときょう打解けて云えるようになったのかしら。何だかゆうべなどはまるであの人でない見たいだった。……だが、相変らず気の小さなあの人は、汽車の中でこんな嵐に逢ってどんなに一人で怖がっているだろう。……」

また明は菜穂子の心を理解しようとするために菜穂子の視線を受け止めようとするのだが、彼女の目つきを「怒ったような目つき」とも表現している。

なぜ菜穂子はこのような冷めた目つきを他人に投げかけてしまうのだろうか。
この冷めた視線の理由を、菜穂子は自覚していない。
本作品において菜穂子は自らの心情を事細かに語ることはほとんどなく、自分の複雑な気持ちをうまく言語化できない自分に戸惑う姿が多く描かれている。このように、菜穂子は自分の複雑な内面を自覚しないままに視線に込めてしまっているのである。
ではこの菜穂子も自覚していない「冷めた視線」の源とは何であるか。このことを考えてみようと思う。

菜穂子は「楡の家」で、結婚について次のように語っている。

 「私、この頃こんな気がするわ、男でも、女でも結婚しないでいるうちはかえって何かに束縛されているような……始終、脆い、移り易いようなもの、例えば幸福なんていう幻影(イリュウジョン)に囚とらわれているような……そうではないのかしら? しかし結婚してしまえば、少くともそんな果敢ないものからは自由になれるような気がするわ……」

この発言からわかるように、菜穂子は「脆い移り易いもの」「イリュウジョン」「果敢ないもの」に価値を置かず、もっと実質的・現実的なものに価値を置いている。
この彼女の価値観から考えると、菜穂子はその「冷たい視線」にはただ他人を見下す気持ちが含まれていたのではなく、「イリュウジョンに価値を置く」人間を悲嘆する気持ちが含まれていたのではないかと思うのである。つまり、菜穂子はイリュウジョンの果敢なさを直観し、そのイリュウジョンを信奉する人を見抜く洞察力が鋭いが故にそういった「冷たい視線」になったのではないかと思われるのである。

しかし菜穂子にはこのように実質的・現実的なものを志向する面がある一方で、他方、人生に対する諦念も持っている。
なんとなく人生を「果敢ないもの」と見ているような部分が感じられるのである。
彼女にとって何が実質的・現実的であって、何がイリュウジョンなのかは私にはよく分からなかった。ただこの二極で揺れ、矛盾する生き方こそが菜穂子の魅力なのかもしれない。

多くを語らない菜穂子は、私には本当に何を考えているかよく分からなくて、そのように無理解な私を菜穂子は彼女特有の冷めた目線で見つめてくるばかりだった。読んでいてそのように感じられた。
しかしその冷めた目線で見つめられたとき、私はもっと菜穂子を知りたくなった。当人すら知らない菜穂子の心を、見たくなった。突き放されつつも魅了される、菜穂子はそんな魅力を秘めた底知れない女性なのである。

小説『菜穂子』も、主人公菜穂子と同じく明解でないのに、いや明解でないからこそ何度も読みたくなるそんな小説である。
菜穂子の心を知りたくて、冷えた視線に射すくめられることを知りながらも、私は再び表紙をめくろうとしている。




David Gelb「二郎は鮨の夢を見る」 (Magnolia Pictures)

二郎は鮨の夢を見る [DVD]二郎は鮨の夢を見る [DVD]
(2013/09/25)
小野二郎、小野禎一 他

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今回批評するのは、David Gelb監督「二郎は鮨の夢を見る」である。
今だとGyaoで無料配信されているので、是非早めに見て頂きたい。

この映画はアメリカ人が日本文化を題材に撮ったドキュメンタリーということで、鑑賞する前は「日本文化を誇張するものになっているのではないか」という不安があった。しかし実際に見てみると、「鮨」という文化にクローズアップしたものにはなっておらず、寧ろその「鮨」という文化を通して「日本の職人」を洞察したものになっていた。
「道を窮める」とはどういったことなのか。このことを、本作品で非常に教えられた気がする。

また、映像もとても美しく鮨が芸術品に見えた。
ネタにかかるタレのつや、シャリから立ち上る湯気、職人たちの華麗な手仕事。
「二郎さんの鮨はコンチェルトなんだよ」
という言葉が本作品中に出てくるが、確かに二郎の鮨には仕込みから提供に至るまで一連の淀みない流れがあり、まさに音楽を聞いているような清々しさがあった。私はそこに「美」を見た。

―――――――――――――――

私はなぜ二郎の「鮨をにぎる」という行為に「美」や「芸術性」を感じたのだろうか。
このことを考えるヒントとして、哲学者ヴィルヘルム=ディルタイの芸術論を抄出したい。大森淳史氏は「生の理解と芸術作品の解釈―W.ディルタイの美学について―」(太田喬夫・岩城見一・米澤有恒編『シリーズ〈芸術と哲学〉美・芸術・真理―ドイツの美学者たち―』所収)の中で、ディルタイの芸術論について次のように述べている。

「[ディルタイは]歴史の中に、すなわち生そのものの中に「創造力」を認めている…この生そのものの「究めがたさ」、すなわちその「創造的本質」をもっとも卓越した仕方で開示してくれるのが、創造的芸術家による「生の表出」としての芸術作品 [である。]」
※[]内は筆者による補足。

少しわかりにくいので、このことを説明してみよう。
ディルタイは、私たち一人ひとりが「歴史」を作っていると考えており、歴史が紡ぎ出されてゆくときに誰一人として欠かせないと考えていた。つまり、ディルタイは生物がみんなでこの世界の作り出してきたと考えていたのである(この世界の創出過程の総体が「歴史」)。ディルタイの中には、「歴史=生命」という概念があった。
そしてディルタイによれば、この歴史ないし生命が「創造力」を含んでいるというのである。この創造力とは、自分の内にある論理的に説明できないような「生命の渦」が自分の外に表出しようとする「能動的な力」であると思われる。ディルタイにおいては、この「生命の創造力」が卓越した形で現れるのが「芸術作品」であると言われている。

さて、もう一度最初の問題に戻りたい。
なぜ私は二郎の「鮨をにぎる」という行為に「美」や「芸術性」を感じたのか、ということである。

二郎は本作品の中で、「この仕事をやると決めたら、その仕事を好きにならなければいけない。何があっても、途中で投げ出してはいけない。妥協は許されない。」というようなことを言っている。そう語り鮨を握る二郎には、「この仕事は俺にしかできない。俺に課された役割だ。」という矜持と覚悟が感じられた。人生を賭した、生命を賭した覚悟である。
このように二郎の握る所作や鮨は彼にしかできない唯一無二の創造的行為であり、そのように唯一無二であるからこそ、「鮨を握ること」は彼独自に課された役割として歴史創造の一端を担っているのである。こう言ったら少し言い過ぎであろうか。しかしいずれにせよ、このことこそが二郎の矜持につながっていると思われるのである。二郎の鮨には、歴史における「唯一無二」の矜持と人生ないし生命を賭した覚悟が凝縮されている。
このことと先に示したディルタイの芸術論を鑑みれば、私が二郎の鮨に芸術性を見た所以を次のように言えるのではないだろうか。以上のように二郎の技術が歴史的な唯一性・独自性を持っていて、しかもそこに二郎自身の生命を賭した覚悟が凝縮されていたからこそ、その握られた鮨は「芸術作品」に感じられたのではないかと。

少々曲解の感は逃れ得ないが、非常に「人生の美」を見られる作品であることは断っておこう。
己を律して生きることはなぜ斯くも美しいのだろうか。




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